こんにちは、おふと申します。
このブログは「ヴィッセル神戸」の魅力を発信していきたいという、いちファンが勝手にクラブの魅力を綴っていきます。
コロナ禍でサッカーの話題が盛り上がらない今の時間を利用して、あえてヴィッセル神戸の歴史を振り返ってみたいと思います。
ヴィッセル神戸は「市民クラブ時代」と「楽天時代」に分かれる
コロナ禍によるJリーグ中断で、サッカーの話題が盛り上がらないですね。
命、生活が優先でエンターテイメントは二の次だとは理解していますが…寂しい限りです。
少しでも「ヴィッセル神戸」の話題を提供したいので、過去を振り返るまとめ記事を書いてみようと思い立ちました。
1995年以前 「川崎製鉄サッカー部」時代
ヴィッセル神戸の前身は岡山県にあった「川崎製鉄サッカー部」です。
JFLに所属していた中国地方の企業チームを神戸に誘致してできたプロサッカークラブが「ヴィッセル神戸」です。
神戸市民にとっては「ヴィッセル神戸」は「神戸」のチームであり、ずっと昔から「神戸」にあったと思われている方もいらっしゃるかもしれません。
上記のリンク記事に書きましたが…
実は岡山から移転してきた事や岡山県サッカーファンの気持ち、川崎製鉄サッカー部員のその後など、ヴィッセル神戸成立にはわりと濃いストーリーがあります。
1994~95年 「神戸オレンジサッカークラブ」時代
川崎製鉄サッカー部を神戸に誘致してできた「ヴィッセル神戸」。
プロサッカークラブ「ヴィッセル神戸」を運営する会社は「神戸オレンジサッカークラブ」。
「神戸オレンジサッカークラブ」は「ダイエー」を中心に設立した運営会社です。
資本金10億円のうち、50%を「ダイエー」に出資していました。
神戸を発祥とした「ダイエー」は、当時日本一の流通グループ。
今でいうところの「イオン」でしょうか。
1990年代後半までは一流企業として、流通界に君臨していました。
そんな「ダイエー」を象徴していたのが「福岡ダイエーホークス」です。
今の「福岡ソフトバンクホークス」ですね。
1988年に「ダイエー」が「南海電鉄」からプロ野球チーム「南海ホークス」を買収。
「ダイエー」がどれだけ繁栄していたかと言うと、この「福岡ダイエーホークス」の為に、1992年日本で二番目となるドーム球場「福岡ドーム」を建設してしまいます。
「ダイエー」がスポーツに投資していた事がよくわかるエピソードです。
「ダイエー」の戦略として、「福岡ダイエーホークス」のJリーグ版が「ヴィッセル神戸」でした。
当時、Jリーグ開幕ブームで「プロ野球球団」と「Jクラブ」を所有していたのは「読売ジャイアンツ」と「ヴェルディ川崎」を持っていた「読売グループ」のみ。
「プロ野球球団」と「Jクラブ」の所有は、ダイエーグループ総裁・中内功会長の夢だったと思います。
…阪神大震災がおきるまでは。
震災の影響で創業初の赤字決算となり、収益改善が火急の課題になった「ダイエー」は「ヴィッセル神戸」からの撤退を決めます。
ここで知っておいて欲しいポイントは
「神戸オレンジサッカークラブ」時代の安達貞至強化部長のエピソードについては下記のリンク記事に載せましたのでもしよかったら、一読ください。
1995~03年 「市民クラブ」時代
ダイエーの撤退により、「市民クラブ」として発足する事になった「ヴィッセル神戸」。
「市民クラブ」時代の8年間は「金欠クラブ」でした。
というのも…
もともと、「ダイエー」を親会社にもつはずだったので95年度から高額な選手を保有していました。
- スチュアート・バクスター監督 (広島からJリーグ優勝監督を引き抜き)
- トーマス・ビッケル選手 (94年ワールドカップスイス代表)
- トレムカニ・アーメド・ジアード選手 (チュニジア代表・95年JFL得点王)
- 永島 昭浩選手 (清水から獲得)
- 和田 昌弘選手 (G大阪から獲得)
- 石末 龍治選手 (横浜Fから獲得)
「ダイエー」の資金力を当てにして、現役代表選手とJリーグから選手を獲得していたのです。
そうでなければ、「川崎製鉄サッカー部」の部員を中心としたチーム編成を行い、人件費の抑制を図ったはずです。
人件費の増加はさらに増え、96年には物凄い大物外国人選手が「レアルマドリード」から加入してきます。
- ミカエル・ラウドルップ選手 (レアルマドリードから獲得)
「ミカエル・ラウドルップ」がどれだけすごい選手だったというと…
ユーロ92ではデンマーク初優勝に貢献。
所属したクラブは超一流クラブが軒並み。
特にヨハン・クライフ監督が率いるバルセロナでは、0トップに起用されていて、リオネル・メッシ選手の「偽9番」の原型だったと言われています。
彼をアイドルにしている選手は多く、「イニエスタ選手」「ダビド・シルバ選手」が「ヴィッセル神戸」を知っていたのは「ミカエル・ラウドルップ選手」が所属していたクラブだったかららしいです。
「ミカエル・ラウドルップ」選手がヴィッセル神戸にこなかったら、「イニエスタ」選手はもしかすると神戸にはきていなかったかもしれません…。
そんな「ミカエル・ラウドルップ」選手の神戸移籍話には本当かどうかわからない噂話があって…
94年にバクスター監督が率いた「サンフレッチェ広島」をJリーグファーストステージを制するのですが、なぜかその年にバクスター監督は「サンフレッチェ広島」から「ヴィッセル神戸」に移籍してしまいます。
ここには「ミカエル・ラウドルップ選手」と「バクスター監督」の密約があり、バクスター監督が広島で契約延長できたら、95年に「サンフレッチェ広島」に来る予定だったらしいです。
結局、「ミカエル・ラウドルップ選手」の高額な移籍金と年棒を「サンフレッチェ広島」が払えなかったので、「バクスター監督」とともに「ヴィッセル神戸」に移籍してきたという話です。
つまり、「バクスター監督」と「ミカエル・ラウドルップ選手」はつながっている契約であり、その契約を神戸が結んだ時は「神戸オレンジサッカークラブ」時代だったという事です。
「市民クラブ」としての資金面で普通に考えたら、「ミカエル・ラウドルップ選手」のような大物外国人選手を獲得するなんてことができるはずもないのですが、それを実行した経緯として、そんな噂話を当時されていました。
そんな人件費を削減できない事情もあり、「市民クラブ時代」のヴィッセル神戸はスポンサー探しに奔走します。
神戸に縁のある「伊藤ハム」「ノーリツ」「川崎重工」など有力企業にスポンサードをお願いしていきます。
それでも、赤字を積み上げていきました。
その結果、2003年には債務超過が約16億円まで膨らんでいきます。
その時の「ヴィッセル神戸」の財務を書いたのが上記リンク記事です。
ヴィッセル神戸の「市民クラブ時代」は筋書きが大きく狂った混迷の時代
ヴィッセル神戸の「市民クラブ時代」は、「復興のシンボル」として神戸市民がヴィッセルを受け入れた時期です。
それとともに、当初予定されていた筋書きが「金欠の市民クラブ」に書き換えられ、クラブは混迷した時代を過ごしていきます。
その混迷した時代に大きな赤字が蓄積され、クラブは身売りすることになります。
ただ、この「身売り」が本来期待していたクラブへと回帰していくのが、ヴィッセル神戸の歴史の面白さかもしれません。
「ダイエー」が夢見た「プロ野球球団」と「Jクラブ」の所有
1994年、「ヴィッセル神戸」を運営する「神戸オレンジサッカークラブ」時代に「ダイエー」が夢見た「プロ野球球団」と「Jクラブ」の所有。
この時は
「福岡ダイエーホークス」+「ヴィッセル神戸」
の組み合わせでした。
時が経ち、2003年に「楽天」が「ヴィッセル神戸」を手に入れます。
翌2004年に「楽天」は新プロ野球球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」を立ち上げます。
つまり、「ダイエー」が夢見た10年後に「楽天」がその夢を叶えてしまいます。
という組み合わせで!
「ヴィッセル神戸」設立当初の戦略は「ダイエー」の「中内会長」ではなく、「楽天」の「三木谷会長」によって完遂されたのです。
「ヴィッセル神戸」の歴史は…
去年までタイトルに無縁で面白くないと言われてきました。
でも、経営面から見てみるとなかなかの愛憎劇があるメロドラマのようなストーリーなのです。
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